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中国の北宋の時代から明朝に至るまでの2世紀から16世紀にかけて、中央銀行の概念すらない時代に紙幣が流通していた事実は、日本のコメ先物市場の創設と同じように、東洋における金融の発露を思わせるものがある。
だが日本の先物市場がその後大きく出遅れたように、中国の先駆性に富んだ貨幣制度も結果的には西欧流の銀貨流通体制に組み込まれていくことになった。
中国の「紙幣発明」には後漢時代の察倫による紙の発明も影響しているかもしれないが、時代が離れすぎていることもあり、むしろ広範囲にわたる商業発達における必然の結果であったと見るべきだろう。
ただその紙幣流通が銀行の設立を伴ったものでないこと、つまり銀行の信用ではなくあくまで商業の一環として流通していたことは、前述したJ・Rや E 銀行の銀行券などの西洋金融史に比較して注目されるところである。
また、もう一つの東西コントラストとして、中国における商業や貨幣経済の発達がなぜ金融資本や資本市場の発展に結びつかなかったのか、という点もきわめて興味深いものがある。
中国の金融戦略の現状を見る前に、簡単ではあるが、同国史を経済面中心に概観しておくことにしよう。
晴、および唐の時代の中国はまさに世界帝国の様相を呈し、唐都の長安は国際都市として活発な交易に支えられ、平和と繁栄を享受していた。
欧州では、ゲルマン民族の大移動によって、西フランク王国や東フランク王国、ローマ教皇領、ビザンチン帝国などが割拠していた時代である。
その後、中国は960年に成立した宋朝の時代に近世を迎える。
ここで貨幣経済は急速に発達し、銅銭が大量に発行される一方で、銀や紙幣の利用が始まるのである。
さらにチンギスハンを太祖に仰ぐモンゴル大帝国は、海外貿易とともにシルクロード経由の交易をも拡大させ、マルコ・ポーロの『東方見聞録』を生む。
少なくともこの時点では、中国が商業の集積拠点として世界最大の規模を誇っていたと考えてよいだろう。
そして明朝の時代には、永楽帝の命を受けてイスラム教徒の富官鄭和が大航海を成し遂げる。
1405年から1433年にかけて鄭和は合計7回の航海を行い、ベトナム、インドネシア、インド、ペルシア沿岸まで達し、一部の部隊はアフリカ東岸にまで至った。
コロンブスの米大陸発見よりも約1世紀早い中国版「大航海時代」である。
だが、この大航海は相手国に朝貢を要求する朝貢貿易の拡大路線の一環であり、西欧がアジアヘの航海で構築したような大規模な商業的貿易には発展しなかった。
鄭和の死後、大航海プロジェクトは停止する。
莫大な費用がかかったのも一因だと言われる。
日本も室町幕府が明朝との朝貢貿易を活性化させた時期もあったが、海賊船などの密貿易増加や秀吉の朝鮮出兵などで両国間での貿易は縮小、アジアには西欧型の発展的貿易経済が定着しないまま、日本は鎖国体制に向かっていく。
一方、清朝ではキリスト教伝道師を仲介役として西洋との交流が活発化することになった。
とくに陶磁器や絹織物などが大量に欧州へ運ばれ、中国には大量の銀が流入する。
アジアでは金融機能がなぜ犀窪産しなかったのかさて、中国や日本において商業を通じた貨幣経済の発展がなぜ金融資本や資本市場の発達をもたらさなかったのか、これまで西欧金融史を眺めてきた視点に立って言えば、資金を資本化する必然性に乏しかったという点が挙げられるだろう。
たとえば、アジアには西洋型の民間主導での大航海や鉄道建設のような大量の資本を必要とするプロジェクトが生まれなかった。
資金は蓄積されたものの、それを資本化する契機を得なかったのである。
羅針盤の発明は大航海を、印刷の発明は宗教改革をそれぞれ促すなど、中国の技術開発国がアジアの覇権を握ると輸出品は茶葉へとシフトしていくが、銀の流出を食い止めたい英国はアヘンを使って逆に中国から銀を大量流出させていった。
その後のアヘン戦争を経て、清朝の中国は半植民地状態に転落し屈辱的な立場に置かれることになっただけでなく、経済や金融面でも従属的な地位に追いやられることになる。
それは、欧米列強によって鎖国体制をこじ開けられた江戸幕府の日本も大差はなかった。
日中などアジア地域は、なす術もなく英国が主導する国際金融システムに組み込まれていったのである。
西欧の政治経済社会を大きく変革し、金融の発展に間接的に寄与することにはなったが、残念なことに、自国及びアジア地域における金融の発展に貢献する機会には乏しかった。
画期的な紙幣の発見も、近代的な銀行制度との出合いに恵まれなかったのである。
その必然性が生じる前に、欧米諸国によって先手を取られたということもできる。
また、オランダや英国の東インド会社のように、アジアに国家プロジェクトとしての経済活動や金融取引が芽生えなかったことも、金融資本や資本市場不在への大きな分岐点になったようにも思える。
確かに海洋ネットワークとしてのアジア地域の経済発展には目覚しいものがあったが、それが華僑社会などの個人社会の域を出ず、国家を背景としたダイナミズムにまで発展しなかったことも一因だと言えるかもしれない。
その後の中国の政治的及び経済的歴史は、まさに出遅れた大国の悲哀を感じさせるものであったが、それが大きな転換を迎えるのは T による「経済建設」路線が始まった1978年である。
同年2月の2期3中全会で中国共産党は文化大革命の路線を否定して「社会主義近代化建設」を打ち出し、1984年如月のn期3中全会では「経済体制改革についての決定」を採択して市場機能を重視する考え方を導入していった。
その後も経済特区の創設や沿岸都市の外資への開放などを通じて市場経済の導入は進み、1989年の天安門事件で一時停滞する場面もあったが、1992年の T の「南巡講話」を契機に再び市場経済への道が開かれていく。
現在、中国経済は年率17%を超える成長を続けているが、その根底には1997年の第賜回党大会で党規約に盛り込まれた「都小平理論」が息づいている。
「資本主義にも計画があり社会主義にも市場がある」と述べた T は、外資導入の必要性をも重視していた。
現代中国が積極的に外資を導入して技術向上を図り、世界の工場として製品輸出によって富を蓄積していく様は、まさに彼が描いた通りのモデルであったが、その獲得外貨によって米国の巨額経常赤字をファイナンスし、欧米の大手金融機関にまで出資するようになるとは、先見の明があった T といえども、想像だにしなかったのではないか。
中国の金融といえば、前で触れたような外貨準備を積極運用するイメージが強いが、経済力の向上を目的とする本来的な意味からは、国内の金融システムをどう設計するか、という制度設計力に注目すべきだろう。
そして、中国は環境適応力と金融育成力も同時に要請されている、という点で厳しい立場にあるということもできる。
それは、欧米からの人民元改革への強い圧力に表れている。
欧米諸国が外圧を掛ける背景に、中国からの輸出攻勢に脅威を感じているだけでなく、金融における優位を維持している間に、中国をその枠組みに組み入れておこうとする政治的思惑が働いているのは確実である。
そこには、日本に対する戦略の成功体験も大きく影響しているといってよい。
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